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空白なアラウカニアに目をつけ

1860年、フランス人オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンが政治的に空白なアラウカニアに目をつけ、マプチェ族を巻き込みアラウカニア・パタゴニア王国建国を布告した。彼の祖国フランスでさえ相手にしなかったこの宣言は、然したる脅威にもならないチリ政府に格好の口実を与えた。同年、7代目の大統領ホセ・ホアキン・ペレス(en)はアラウカニア地区の併呑を決定した。そして当局は、武力攻撃と文化破壊の両面を備えたコルネリオ・サーヴェドラ・ロドリゲス将軍立案の侵攻計画を実行に移す許可を与えた。この計画は軍事面に止まらず、都市や道路などの建設や公的機関の設置なども含んでいた。

1862年、ロドリゲス将軍率いる軍は制圧作戦を実行に移した。進軍は短期間でマレコ川(en)に達し、軍はかつてアンゴルに存在した要塞を再築し、さらに二つの砦をMulchénとレブ(es)を建設した。侵攻は南のバルディビアからも行なわれ、海岸線に沿ってトルテン川にまで達した。これらは作戦の第一段階であり、マプチェ族からの反抗は小規模なものだった。1866年に政府は保留地(レドゥクシオン)にマプチェ族を押し込め、彼らの土地を奪う施策を実施し、弾圧をより強めた[1]。これにはマプチェ族も黙っておられず、有力な首長の一人Quilapánがマレコ川近郊で抵抗運動を開始した。

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しかしながら、進軍は反抗をものともせずアンゴルを拠点に南下し、マプチェ族最大の居住地であったアラウカニア西部の臨海部に都市プレンが建設され、海岸線を伝った通信網が設けられた。1871年から1879年にかけて、制圧の任に当たり続けた将軍バシリオ・ウルティア(es)はマレコ川に至る地域に進軍し、川の北岸には2,500人の兵士が防衛する防衛線が設けられた。こうしてアンゴルからコジプジまでを電信で結ぶことに成功し、内陸側の土地も着々と制圧しつつあった。

1879年南米の太平洋戦争が勃発すると、ペルー・ボリビア連合との戦闘のために多くの戦力がアラウカニアから転進し北へ向けられた。これを好機と捉えたマプチェ族は、一部の部族を中心に劣勢の挽回に成功し、翌年には前線の要塞に攻撃を仕掛けるなど活発な反撃を見せた。しかし、それも駐屯部隊に有効な打撃を与えられるものではなく、せいぜい少々の略奪を働く程度にとどまった。

1883年、チリ政府は南米の太平洋戦争を勝利で終結した。ドミンゴ・サンタマリア・ゴンザレス大統領(en)は、アラウカニアの騒乱に決着をつけ、マプチェ族の中軸地帯を領土に併合すべくグレゴリオ・ウルティア(es)将軍を送り込んだ。スペイン統治時代からの古い町ビジャリカが再興され、カラウエ(es)、ラウタロ(en)、Pillánlelbu、テムコ、Nueva Imperial、プコンなどアラウカニア南部に次々と砦が設けられた。この過程で、周辺のマプチェ族は土地を奪われ、約10,000の人々がこの戦いで殺害された。生き残った者たちもペウェンチェ族やアルゼンチンの抑圧を避けてアンデスに移り住んだ部族などを頼って山岳地帯に逃がれ、アラウカニアに留まったわずかな集団は先祖伝来の土地をチリ人や他の植民者に奪われてしまった。

歴史学者の中には、この一連の制圧をもって300年にわたるアラウコ戦争の終結と位置づける者もいる。

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2009年04月30日 13:37に投稿されたエントリーのページです。

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